足尾銅山
小学校のとき社会で勉強した、田中正造、足尾鉱毒事件。あれから10年経って、まさか廃墟目的でここを訪れることになろうとは。
足尾銅山は江戸前期から既に採掘が行われていたが、1877(明治10)年、古河市兵衛(古河機械金属創業者)が開発を担ってから急速に発展した。
しかし一方で鉱毒による被害も顕著なものとなり、山の木々や農作物は枯れ、また洪水によりその範囲も拡大し、人々は生活の基盤を失っていった。自らの土地を、生活を守るため、彼らは辛く苦しい闘いを強いられることとなるのである。
現在、植林などの甲斐あって足尾の山でも緑が見られるようになった。足尾銅山も閉山し、人々は元の生活を取り戻したように思う。
しかしそれでも、一世紀余に渡る公害との闘いが歴史から消えることはない。
廃線になった線路は精錬所へと続いている。
20年ほど前までは、鉱石を積んだ貨物列車が通っていた。
まずは上に行ってみよう。
広い敷地に施設が点在している。
銅の鉱石は硫黄を含み、精錬時に二酸化硫黄(亜硫酸ガス)SO2が発生する。
この場所ではその二酸化硫黄から硫酸を生成していた。
工業的製法の反応式は以下の通り。(接触法、触媒は五酸化バナジウムV2O5)
2SO2+O2 → 2SO3
SO3+H2O → H2SO4
SO2は無色、刺激臭の有毒気体で、火山などから発生することもある。
SO2≒64(g/mol)、空気(N2:O2=4:1)≒28.8(g/mol)
空気より重いため、通常は発生すると下方へ移動する。
したがって窪地などに溜まりやすく、登山などの際には注意が必要だ。
この施設が完成したのは1956(昭和31)年。
本格的に開発が始まってから80年近くが経過している。
この間、足尾銅山は周辺地域に多大な被害を及ぼしたが、
原因となる二酸化硫黄の排出減少により、被害は縮小の兆しを見せ始めた。
ここにあるものはすべてが錆びている。
これもやはり二酸化硫黄の影響なのか。
こんなスカスカになってしまったのは・・・
コンクリートの方が頑丈だ。
施設自体はもちろん稼動していないだろうが、
人の出入りはあると思われる。
足尾の町を見下ろす大煙突。
足尾銅山はこの町に繁栄をもたらしたが、
その代償はあまりにも大きかった。
さて、そろそろ下に行こうか。
役目を終えた選鉱場は、しかし未だに威容を見せている。
山に緑が戻りつつある中、その無機質な茶褐色は
足尾という場所の過去を語っているように思う。
かなり長い階段を下りた。
帰りは上るのか。めんどくさいなあ・・・
かつての終点、足尾本山駅。
廃線から20年近く経っているとは思えない。
今にも列車が来そうな雰囲気だ。
しかし門は閉ざされ、列車が入ってくることはない。