正式名称は「川南工業浦之崎造船所」

戦時中から戦後にかけて造船所として稼動したという


 

 日本が敗戦国となってから長い年月を経た。人間が自ら体験した太平洋戦争を語ることができるのは、果たしてあと何年だろうか。

 語る者がいなくなったとき代わりに戦争を語ってくれるのは、戦争遺跡を含めた、残された「モノたち」であろう。

 

 

 

 

植物と一体化しつつある廃墟

 

 

 

もとはガラス工場だったと言われる

 

 

 

1940(昭和15)年から造船を始め、1943(昭和18)年に軍需工場の指定を受けた

 

 

 

多いときには学生や朝鮮人労働者を含め2500人が働いたという

 

 

 

写真ではいまいち伝わらないが、かなり広い空間

 

 

 

それなりの大きさの船を造るなら、大規模な設備もいるだろう

 

 

 

ちなみにここでは普通の艦船に加え、特攻用の有人魚雷も作っていたという

 

 

 

 

航空機にしろ魚雷にしろ、特攻に帰りはない

死への片道切符である

 

 

特攻で戦局が大きく好転するとは到底考えられないが

 

 

 

当時は軍部も、そして兵士や一般市民も

 そう信じていたのだろうか

 


 

  

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